私事ですが、先週18日金曜日に最愛の愛犬「桃」を亡くしました。まだ8才8ヶ月(人間でいうと48才)という若さで、突然死でありました。何の病気をしている訳でもなく朝まで元気でして私をいつものように見送ってくれました。ただ、その日だけは少し違い私が玄関を出る瞬間から吠え出したのです。そして私が駐車場へ向かう数メートル先まで吠えておりました。そんな事は一切なく、またいつもより力強く吠えていたのが耳に焼き付いています。そしてその数時間後家に帰ると桃は息を引き取っていました。
抱き上げるとまだ温かく、失禁したので私が帰る数分前に亡くなったのかと思います。私は信じられませんでした。「まさか!?何で今なの!?」
正直私はこの子が天へ還ることなど想像もしておらず、この子がいなくなることを想像しただけで涙が溢れるほど溺愛していました。
何時間泣き続けたでしょう。何時間桃の側から離れなかったでしょうか。その夜は桃を私の側に寝かせ一緒に眠りました。
翌日も朝から涙が止まりません。何も手につかず、ただ時間が流れていきます。ですが、個別葬祭の予約をしていたのでやっと重い腰を上げ、斎場へ行きました。
骨になってしまった桃。亡くなっていた時の姿が目に焼き付き、何度も何度も頭の中を掻きまわします。もう心が振れてしまい、私が私でない状態でした。旦那さんが帰宅し、私を抱きしめてくれ共に泣きました。そこでやっと「わたし」が帰ってきたように思います。
桃の死はどういう意味があったのか・・・そんなことを旦那さんと共に「内なるわたし」へ問いかけました。全ては私達夫婦の絆を深く結ぶため、そして「自分らしく生きる」という新たな人生のステージへステップアップするためのリセットであるということ。
私は、自分に制限をかけておました。桃が待っているから早く帰ろうとか、今○○しておかないと・・・っと思っても時間はあるのにまた次でいいか?とか。また、明日がある次があるという思いでいたのです。それは、私の中でどうしても手放せない時間への制限、桃への執着だったのです。ですが、こうして朝は元気だった桃が数時間後には亡くなっているという、次はない明日はわからないという事を思い知らされたのです。これは、パートナーであったり、家族であっても一緒ですね。また、自然災害もそうです。
これくらい・・・っと、つい自分に怠けどんなに時間を無駄にしていたことでしょうか。
「今この瞬間を生きる」
ということは、今しかない今この時を無駄にすることなく精一杯楽しむということ。私なんてとか、愚痴を言ったりとか他人を評価している時間はほんの数分の出来事かも知れません。
ですが、その数分のために自分のエネルギーを使い無駄に「生命(いのち)」を削るなんて愚かなことは、人間として生まれた事の意味がありません。
迷う前に動いてみる。考える前にやってみる。人と比較する前に自分を大切にし褒めてあげる。
「わたしと生きる」それが今、私達にとって一番必要とされることではないでしょうか。そして繋がる結ばれていくということ。
先ずは、自分を優先し制限を解放していきたいですね。